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バッチ博士の生涯

バッチ博士の生涯

エドワード・バッチ博士(1886年~1936年)

バッチ博士は、全ての病気を癒す単純な方法で病の苦痛に喘ぐ全ての人を癒せるフラワーレメディ(花の治療薬)の発見と「誰もが家庭の中で、生活の一部として、使えるシンプルなフラワーレメディを作る」ために人生の全てを捧げました。

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  • 少年時代
    エドワード・バッチ博士は、イギリス中部バーミンガム市郊外のモールズという町に生まれました。
    子供の頃は身体が弱く、病気がちな反面、一方バイタリティーにあふれ、冒険を好み、遊び好き、いたずら好きなユーモアのセンスを持ち合わせながらも、植物と新鮮な空気が好きな、目的意識を強くもった直感力に優れた少年でした。
    この地方は、妖精伝説や多くの民話や神話で知られるケルトの文化が残っているという点も、その後のバッチ博士の生涯とは無関係ではないかもしれません。
  • 少年時代後半
    16歳で学校を卒業した彼は医学の道へ進むことを決意し、自分で学費を稼ぐために3年間父が経営する鋳物工場で働きました。
    彼はあらゆる部所で賢明に働くかたわら少年期からの自然界を調べることの興味を失せさせることはありませんでした。
    そのために、昼間、自然の中での散歩を優先させて夜働くことを選びました。
  • この時、工場で働く人たちは、病気になっても失業や高額な医療費の負担を恐れるあまり、決して休まず無理をしながら働いている現実と出会い、このような人たちの心を楽にし体を癒す方法を見つけることを決意しました。
    医者になり人々を救いたいという気持ちを一層強く抱くようになりました。

  • 青年時代前半
    20歳。バーミンガム大学に入学して医学を学びはじめました。
    バーミンガム大学からロンドンに移り、ユニバーシティーカレッジ病院の研究生となり外科医・内科医・医学士・理学士の学位と開業医の免許を取り、28歳でロンドンのハーレー街に診療所を設けました。

    その間、同じ治療が同じ病気に常に効くとは限らず、特定の病気に特定の薬を投与しても効き方に個人差が出ることに注目し、類似した性格や気質を持つ病人には同じ薬が効力を持ち、違った性格や気質を持つ病人には同じ症状を訴えていても別な治療を必要とすることに気が付きました。

    病気の治療においては個人の体よりも性格の方がよリ重要であるということにも注目しました。
    一方 ユニバーシティーカレッジ病院の細菌学者となり、慢性病を引き起こしている毒素を体内から除去するために腸内バクテリアからワクチンを作り予想をこえる成果をあげました。

  • 青年時代後半
    31歳。激務による過労が原因で昏睡状態になり、緊急手術の結果一命を取り留めたものの余命三ヶ月と宣告されました。
    しかし医学への熱意と着手したばかりの研究をやり遂げたいという熱意が高まり、残された三ヶ月の間にやり残す事のないよう研究室に戻り研究に没頭し始めました。
    身体が悪いことをすっかり忘れて研究に没頭していくうちに、逆に体が強まっていくのを感じ、その研究室の窓明かりは『永遠に消えない光』と同僚の医者に言わしめました。
    そして三ヶ月後がんを克服してしまったのです。
    この自らの経験から「人生にはっきりした目的を持ことによって、どんな困難をも克服し健康を回復することができる」ということに気付いたのです。

    32歳。ホメオパシーの研究所に勤め始めた頃、ホメオパシーの創設者ハーネマンの著書「オルガノン」と出会い衝撃と感銘を受け、ホメオパシーの病気治療に対する考え方と自分の考えかたに共通するものを見出し、自らもホメオパシー医学に転身しました。
    長年の治療経験から近代医学が目標とするからだの「病気の症状」のみを治すことだけでは不充分だと考え、心と体を含めた人間全体を治療することの必要性を強く感じるようになりました。

    ハーネマンと自説の融合をはかり、慢性病の原因である毒素を除去させるワクチンの研究に没頭し、1919年33歳で、<バッチの7大ノソード>という経口ワクチンの開発に成功し、世界的に著名な細菌学者として王室医にもなることができました。
    しかし、次第にホメオパシーも自分が考える治療をするためには不充分ではないかと感じるようになってきました。
    すぐれた直感と洞察力を持つ彼は、自分が研究してきた薬にとって代わるもの、心と体を含めた「人間全体」の治療を行うために、人間本来の自然な健康状態を回復し病気を本当に癒してくれるエネルギーは身近な野山の植物の力から見つけられるのではないか、と確信を持つようになりました。

    大きな転換期が訪れたのは、1928年9月41歳のときでした。
    <7つのバクテリア・ノソード>の代用になるものが自然界の植物や薬草にあると確信してウェルズに行きバッチフラワーレメディ38種類のうちの最初のレメディ、インパチェンス・ミムラス、続いてクレマチスを発見し、患者の性格だけを頼りに治療を始めたところ大きな成果が確かめられました。

    これまでのバクテリア・ノソードを自然界の純粋かつ単純な野草に切り換える決意をし、他の療法をすべて放棄して全く新しい薬学体系を発見することに全てを賭ける決意をしました。

  • 43歳~晩年
    1930年5月43歳。経口ワクチンの成功にも満足することができず、バクテリア・ノソードの完成をスタッフに譲り、自分の求めている治療薬は自然界の木々や草花の中に見つかると確信して、ロンドンでの地位と名誉をすべて捨てウェルズに旅立ちました。
    すべての時間を新しいレメディの発見のために費やし、イギリスの南部、東部の何千キロという道を歩きました。

    その間も治療を怠ることはなく、富める人にも、貧しい人にも等しく救いの手を差しのべました。
    旅の間、他人が困っているのを見過ごすことができず、自分のもっているわずかなものも人に分け与えました。
    「バッチはもっている以上のものを人に与える」という言葉ができるほどでした。
    この苦しむ全てのものに対する絶大なる憐れみの情、と自然界とそこに生えている木々や植物をこよなく愛する気持ちがあればこそ病気におかされ苦痛に喘ぐ全ての人を癒せるフラワーレメディを発見することができました。

    そのころ、さらに鋭敏になった直感力によって、自然界のさまざまな植物から波動と力を感じ取ったり、何かの植物の花を手にしたり舌に触れたりするだけで、その花に秘められたエネルギーの本質を感じ取ることができるようになっていました。

    そして太陽の光を十分に浴びた植物の露に、花の力が凝縮されていることを発見したのです。
    しかし各々の花の露を少しづつ集めるにはあまりに時間がかかり過ぎてしまうため、この花のエネルギーを引き出すのに最も効果的な方法として、清流から汲んだ水を一杯に張ったガラスボールの中に花を浮かべて、野原の上で数時間太陽にあてることで、水が植物のパワーをおび、強い力を生むことがわかりました。
    花のパワーを水に転写させる太陽法(サンメソッド)という方法を考え出しました。
    新しい薬の製法の発見でした。
    この母液の作り方も秘密にせず、誰でも作れるように公開しました。
    こうして次々と新しいレメディを発見していきました。

    すべてを完成させ、1936年11月27日博士は永遠の眠りにつきました。病気の治療を単純なものにすることで病気への恐怖を取り除くことができると確信して、50年間休みなくただ一つの目的「病人を癒すための純粋で単純な方法(フラワーレメディ)発見」のために働きました。博士の一生は人に仕え、人に与える一生でした。

    バッチ博士の哲学は、「病気ではなく、自分自身を癒せ」という彼自身の言葉に集約されています。バッチ博士は医師、外科医、研究者として経験を積む中、病気は身体ではなく心からはじまるということ、そして病気(だけ)でなく自分自身を癒すことの大切さを確信したのです。つまり、心や感情のバランスが崩れるとその人全体に影響があらわれ、結果として肉体的な不調和も起きるということ。心の状態を癒すことが根本的な病の治療につながる、とバッチ博士は考えたのです。

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